次期大河ドラマでも注目!新しい日本の顔、渋沢栄一の人物像に迫る!

こんにちは!平柳です。

 

以前に、大河ドラマ麒麟がくる」の主人公・明智光秀の意外な人間性について特集しました。(そのときの記事はこちら

今回は来年の大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」の主人公・渋沢栄一に迫ります。

「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、新一万円札の新しい顔にも決まった渋沢栄一ですが、「なんとなく名前を聞いたことがあるけど、実はどんな人物かよく知らない」という方も多いのではないでしょうか。

今回はそんな渋沢栄一の功績や人物像について紹介していきます。

 

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設立した企業は500以上!?実はすごい渋沢栄一の功績!

渋沢栄一1840年に現在の埼玉県で生まれました。
家は豪農で養蚕(ようさん)業や藍玉(あいだま。染料の一種)の生産販売を営んでいました。
10代半ばで家業を手伝い、商売に興味を持ち始めたのもこのころだといわれています。

その後、のちに15代将軍になる慶喜の家臣となり、人事面、経理面、営業面と多方面で活躍しました。

フランスへの留学も経験して、帰国後は江戸幕府から明治新政府に変革していたことから、当時慶喜がいた静岡藩に就職しました。
そこでの財政手腕を明治新政府から目をつけられ、大蔵省に入省します。

33歳にして大蔵省ナンバー2の地位につきながらも、政府の方向性に違和感を感じたため、官僚を辞めて第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を設立しました。

ほかにも、さまざまな業界の会社の設立に関わり、帝国ホテル、王子製紙などを含む、500社以上の会社設立に貢献しました。

また日本赤十字社一橋大学の創設に関わるなど、600もの社会公共事業も携わったといわれています。

その功績から、国から勲章を授与されたりノーベル平和賞の候補にも挙がったりしていました。

私も今回の記事で渋沢栄一について詳しく調べて理解が深まりましたが、本当にすごい人物だったんですね!

トップクラスの官僚をあっさり辞めて起業!地位名誉にとらわれない、渋沢栄一の人物性

渋沢栄一の生涯を見てみると、地位や名誉にとらわれない、高い志をもった人物だったことが見えてきます。

文久3年(1863年)、当時23歳の渋沢栄一は、幕府と対立する尊王攘夷・倒幕運動に自身も呼応していました。しかし、その後さまざまな経緯を経て、かつて敵であった将軍の直属の部下として働くことになりました。

また、フランス留学で学んだ実業のノウハウを生かしたいと思ったものの、政府を通してでは実現できないと思い、大蔵省での地位をあっさり捨て、自ら実業の基礎を作り上げていきました。

渋沢栄一の環境に囚われない行動力、自分の信念を突き通す姿が垣間見えてきますね。

後世にまで語り継がれる、渋沢栄一の精神

渋沢栄一の偉大さは彼の信条にもあります。
渋沢栄一の一貫した信条は「道徳と経済の一致」です。

「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」

人間の道理を尊重しながら富を築いていくその信条は、資本主義が加速する現代社会に生きるビジネスパーソンに大事なモノを思い出させてくれます。

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2021年の大河ドラマ「青天を衝け」も、今から楽しみですね!